起業物語

起業物語

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皆さんはじめまして。高橋康徳と申します。

幼少期~テレビ局への就職活動

幼少期~テレビ局への就職活動

僕は、1972年に宮崎県延岡市という田舎町で生まれました。海と山と川の大自然に恵まれた故郷・延岡で成長した後、高校卒業と同時に広島大学理学部化学科に進学しました。

大学卒業には5年間かかりました。専攻は化学(Chemistry)でしたが、大学3年時に知り合ったオーストラリア人の放送作家ヴォーン氏に強く影響を受け、「自分もテレビ局で働く!」と意志を固めました。

そしてテレビ局への就職活動を開始しました。

時は1995年。あの、阪神大震災や地下鉄サリン事件が起きた大混乱の年でした。僕はどうすればテレビ局の人に自分を気に入ってもらえるか?と考え、自分の専攻だった化学の知識とニュースで持ちきりだったサリン事件を組み合わせて、面接でこんな話をしました。


「サリン事件の報道は、いたずらに恐怖を煽ってばかりに見えます。自分だったら、化学の知識を活かしてもっと視聴者に役立つ情報を流します。例えばサリンは水をかけると簡単に加水分解する物質ですよ!とか・・・」

テレビ局の役員面接で力説した結果、なんとか福岡のフジテレビ系列のテレビ西日本(TNC)から採用していただきました。

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テレビ局時代

テレビ局時代

テレビ西日本(TNC)には1996年~2004年3月まで丸8年間お世話になりました。TNCは今も僕の故郷です。本当に感謝しています。僕はこの会社で社会人としての基礎を教わり、その後社会で生きるための力をつけさせていただきました。

テレビ局時代の8年間は一貫して「報道記者」でした。記者の仕事は「事件や事故の現場に直行し警察や消防・目撃者などに取材してイチ早く情報を伝える」というもの。

アナウンサーがスタジオで読む原稿を書いたり、時には現場からリポートや生中継も記者が担当します。


8年間で書いたニュース原稿は約3000本。ガルーダ航空機の炎上事故や、対馬沖のタンカー沈没事故、鹿児島の大地震、台風19号といった数々の事件や事故・災害のほか、2003年の民主党大躍進の総選挙や鳥インフルエンザ、SARSなども担当しました。記者クラブは、福岡県警、福岡地方裁判所、福岡高等裁判所、同小倉支部、北九州市警察部、北九州市役所、福岡県庁。

聞く力、メモる力、まとめる力、伝える力など現在のカウテレビに生きる力のほぼ全てを教わったのはこの報道記者時代でした。

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転機-911テロ取材

2001年9月11日。アメリカで、911同時多発テロ事件が発生しました。

テレビを見て「これは大変だ・・・」と思いつつも、どこかテレビの向こうの世界のことで全く現実感はありませんでした。
まさか、数日後に自分がそのニューヨーク行きを命じられるとは夢想だにしませんでした。

そんな中で、運命のめぐり合わせが起きたのです。

テロの3日後の昼過ぎ、TNCの北九州支社(当時の勤務先)に1本の電話が入りました。
電話の主はTNC本社の坂田部長。部長は単刀直入に・・・

テレビ局時代

「高橋、お前ニューヨークに行くか?」

「え?」

「テロの現場に取材に行くか?」

「・・・・・・」

「どうか?」

「行かせてもらえるんでしたら」

「よし、荷物まとめて本社に上がって来い!」

「はい。分かりました。」


短いやり取りでした。この時の僕の心境はというと、決して平常心ではありませんでした。
しかし、NOという思いはありませんでした。
身の危険や恐怖も確かに感じましたが、それよりも、「あの、歴史に残るであろう現場を、この目で直に見たい!」という、記者の本能みたいな感情が勝ったのでした。その中で1つだけ申し訳なかったのは、妻に何の相談もなく現地行きを決めたこと。
NY行きを告げた時、彼女は僕の身を案じて泣いていました。

こうして僕はFNN系列(フジ系)の現地の助っ人記者の1人としてニューヨークへと派遣され。
現地到着はテロの5日後。このNYでの2週間が、その後の僕の人生を大きく変えることになりました。

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ジェシカさんとの出会い

現地入りした僕は、マンハッタンの西側に設置されていた被災者救済センターの取材を命じられました。
日本人被災者の関係者はどなたも取材に応じていただけない状況だったため、僕たちは外国人の誰かに取材させていただくべく当たることにしました。その結果、テロで最愛の夫を亡くした40代の女性が取材に応じて下さったのです。
ジェシカさんというユダヤ人女性でした。

ジェシカさんのご主人はWTCビルの最上階にあった「Window of The World」というレストランでソムリエとして働いていたそうです。
そして残酷なことにテロ前日の9月10日は、2人の結婚記念日だったというのです。
「こんなことになるんだったら最後の夜をもっと盛大に過ごしたのに・・・」彼女は涙ながらに語りました。

「たった1日で、私の人生は、全く別のものに変わってしまったの」

その言葉を聞いた瞬間、僕の中に、それまで意識したことのなかった感情が浮かんできました。
自分が漠然と抱いていた「自分は60歳か70歳まで元気に働いているだろう」という未来の根拠の希薄さに気づいたのです。
目の前のジェシカさんは、元気だった夫をある日突然失い、自分の人生までもが大きく変わってしまったのです。

「人生は一度きり」とか「命は儚い」という言葉は知っていましたが、生まれて初めて現実味を持って直面したのがこの時でした。
この日から僕は自分の未来を生まれて初めて真剣に考え始めたのです。

「人生は一度きり。報道記者は自分が人生を賭けて遂げる仕事なのだろうか?」

仕事と人生について、来る日も来る日も考えて考えて・・・そんな日々が始まりました。

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自分の仕事を振り返ってみる

僕が作ってきたニュースの大半は事件・事故・災害・テロ・不祥事など、世間のネガティブ情報ばかりでした。
先輩たちからは「事件事故の硬派なニュースこそが記者の本分だ!」
と教わりましたが、どうも自分には、その”硬派なニュース”に人生を賭けるイメージが沸きませんでした。

一方で、心から誇りに思えるタイプの仕事がありました。それがドキュメンタリーでした。
博多人形師の奮闘を追ったドキュメンタリーやゲームのレベルファイブ社に密着したドキュメンタリーなど、高い志で奮闘する人物の努力に密着し、実録ドキュメントとして番組化する。
その番組を見た視聴者が元気や勇気を感じてくれる・・・そんなポジティブな番組作りこそ、魂を100%燃やせると感じたのです。

しかし一方で、
「テレビ局の正社員という恵まれた立場を捨てるなんてもったいない!」
という別の自分がいたのも事実した。さらに先輩たちからは
「ドキュメンタリーなんてコストパフォーマンスの悪い仕事で独立するのは無茶だ!」と助言されました。

自分の仕事を振り返ってみる


僕はこの間2年以上、悶々と迷い続けていました。

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7人の起業家との出会い

「独立するか?記者を続けるか?」

テロから2年近くが経った2003年8月、1本の電話が鳴りました。相手は大学時代のゼミの1つ先輩の堀明則さん。
香港で独立して日本と外国を繋ぐビジネスを展開中の起業家でした。そんな堀さんからのお誘いの電話でした。

「今度の金曜日に湘南に面白い奴らが集まるから、お前も来ない?」

唐突なお誘いでしたが、何か惹かれるものを感じた僕は湘南に向かいました。
平日に無理やり休みを取って、航空券を買い、羽田からバスで1時間以上かけて湘南まで行ったのです。
こんな誘い「普通は断る所だろ?」と、今でもそんな気がしますが、当時の僕は何かを感じたようでした。
そしてその期待通り?に「事件」が起きたのです。

湘南。訪問した先は、当時若手書道家として注目され始めていた武田双雲さんのアトリエでした。そこに僕を含めて20代~30代の9人が集まってきました。面子を見ると、僕とIBMの若手部長さんを除く7人が社長やフリーランスという起業家たちでした。

7人の起業家との出会い


元ホンダの中近東マーケッター村尾隆介さん(現スターブランド社)、ニューヨークでビジネスをしている宮内亮さん(現ディライトニューヨーク社)、埼玉の酒屋の五十嵐香保里さん、名古屋グランパスエイトの元プロトレーナー佐保豊さん、香港の商社マン堀明則さん(現ホープウィル社)、書道家・武田双雲さん。オリジナルコスメブランドを持つ小菅祥子さん。
その後の彼らの活躍ぶりを見ると、この日にこの面子が揃ったことが今では信じられません。

自己紹介が始まりました。そこで繰り広げられる光景に僕は衝撃を受けました。
それは「社長×社長=ビジネス発生」という光景でした。
起業家同士が出会うことによってビジネスが次々と生まれる様子を目の当たりにしたのです。
例えば、南米チリに詳しい佐保さんがチリで人気の「レタスクリーム」という商品を語ると、商社の堀さんが「輸入しよう」と言い、コスメのショーコさんが「じゃぁ国内の流通ルートは・・・」といった感じで、どんどん目の前でビジネスが生まれていくのです。
サラリーマンの僕には「衝撃」としか表現できない世界でした。
なんだか悔しく、羨ましく、同世代の彼ら全員の姿が眩しくて仕方ありませんでした。

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Just Do It! 独立を決意

そして僕に自己紹介が回ってきました。
「僕は福岡のテレビ局で報道記者を・・・(中略)・・・将来はドキュメンタリー作家として独立したいです」
すると、その場の全員が即座が反応しました。
「独立すればいいじゃん、応援するから!」
「取材のネタだったら、ほら、ここに大勢いるし」
心がグラグラと揺れました。

「独立したい・・・ドキュメント映像で勝負したい・・・」

その日の午後。武田双雲さんによる「起業家の書道教室」が行われました。
それがまた心ときめく内容で、僕は湘南を出る頃にはすっかり「ああ、こういう人たちとビジネスがしたい・・・そういう人生を歩みたい」と、独立のことしか頭にない状態でした。振り返ると極めて単純な思考ですが、逆を言えばこのきっかけがなかったら、僕の独立はいつになったか分かりませんでした。

その夜、福岡に戻った僕は妻に湘南で撮影したビデオを見せながら語りました。

「こんな人たちとワクワクするビジネスがしたいんだ。独立させてほしい!」

その時、それまで独立に乗り気でなかった妻が、初めてこう言いました。
「この映像を見たら、やってもいいかな・・・という気がするね。」

僕の独立が決まった瞬間でした。

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今も繋ぐこの日の想い

現在のカウテレビジョンは「映像(番組)で企業や商品の良さを伝えて視聴者に共感買いしてもらう」のがビジネスの中心ですが、こう振り返ると、僕はまさに自分自身の独立の一歩目を、妻というクライアントに対して、映像で切り拓かせてもらったのでした。
こうした経験があるからこそ僕は自信を持って映像の力をお客様に勧めることができるのだと思います。

(※実はカウテレビ社内の収録ビデオテープライブラリに蓄積された数千本の記録テープの中の、No.0001と0002こそ、この2003年8月22日日の様子を撮影されたものです。これはいつか折を見て公開したいと思います。)

湘南のあの衝撃の1日から半年後の2004年春。
僕は半年間の引継ぎ期間を経てTNCを円満に退社しました。
まずはフリーランスのテレビ番組作家(ドキュメンタリー作家)として活動することに決めました。
5月20日、スピンアウト有限会社(カウテレビジョンの事業母体)を法人登記し、いよいよ念願かなって起業家の道を歩み始めたのでした。

法務局で会社登記を終えた後、妻と天神の小さな店でランチを食べながら「会社が安定するまで贅沢できないから、これが最後の贅沢ね」と、800円の”最後のランチ”を食べたのを、今も昨日のように覚えています。

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起業後、いきなり廃業の危機

が、独立への道はやはり甘くはありませんでした。意欲満々の僕に突きつけられたのは「厳しい現実」でした。独立初年度に稼いだ売上げはわずか650万円。「年商」で650万円です。
それまで「年収」で1000万円以上をいただいていた自分には信じられない数字でしたが、それが現実でした。
開業資金はどんどん減り、一年目にいきなり倒産の危機でした。
原因は今なら分かります。明らかに「僕自身の無知」にありました。

それまでテレビ局の記者であれば「作れば誰かが売ってくれる」という立場でしたが、独立すると「製品を作るのも自分、売るのも自分」でした。
営業なんて家庭教師派遣のアルバイトで少しかじった程度の自分が直面したのは「営業力」という課題でした。先輩たちが「やめとけ!」と言ってくれた助言が現実味を持って僕の脳裏に浮かび上がってきました。けど、時すでに遅しです。

起業後、いきなり廃業の危機


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インターネットとの出会い

どんどん減り続ける資金、毎日感じるのは自身の無力さばかり。
「このままでは遅かれ早かれ廃業するしかない・・・」と気持ちばかりが焦る中、ある出会いが僕を「底なし沼」から救ってくれました。
それは、インターネットで映像配信の仕事を進めていた「カタオカキカク」という同じ福岡のベンチャー企業との出会いでした。

カタオカキカクの片岡社長は僕が作った映像を見るなり、こう言いました。

「僕は高橋さんのような人と会いたかったんです!」

聞くと、片岡社長はそれまでネット上の映像配信ビジネスをしたくて試みていたものの、『自分の制作する映像は素人の域を出ない、テレビ番組のような人の心をぐぐっと掴むことのできる映像をインターネットで配信したい』と感じていたといいます。

インターネットとの出会い


こうして僕は、後にインターネットTV局「カウテレビジョン」の発想の根幹となる「インターネットの映像」という新分野と出会ったのです。
報道記者としての経験とスキルを最大限に活かせる場として。
そしてこの日から僕と片岡さんとのタッグプレーが始まったのでした。

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そして今・・・

2005年2月1日、片岡さんの力を借りながら僕は背水の陣でインターネットTV局カウテレビジョンがオープン。
事業内容は「インターネットTV局の運営と映像を使った企業の商品プロモーション支援」です。
まだYoutubeの「ユ」の字もこの世にない時代でした。
周囲の心配をよそに、同年9月、カウテレビジョンはそのビジネスモデルが評価され、福岡市主催ビジネスプランコンテストでグランプリを受賞することができました。

そこから徐々にではありますが、僕たちの商品に興味を持ってくださる会社が増え始め、今では福岡を拠点に130社1100本超の企業の映像を手がけることが出来ています。

こうして半生を振り返ってみると、人生のあらゆるターニングポイントに「人との出会い」があり、それらの出会いのお陰で自分のこれまでの世界は広がってきたのだと実感します。

この文章を読んでくださるあなたとも、こうして人生で接点を持てたこと自体が奇跡だと言えます。ご縁に心から感謝いたします。

最後まで読んで下さってありがとうございました。

そして今・・・


(高橋康徳 株式会社カウテレビジョン代表取締役)
(2007年2月2日初版投稿/2009年3月11日追記/2010年10月26日追記)

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